今川氏といえば、1560年の桶狭間の戦いで織田信長に敗れた「今川義元」が有名です。
しかし、今川の礎を築いた人物こそが今川範国(1295〜1384)です。
彼は清和源氏の名門・足利一門の血を引く武将であり、駿河国の初代守護に任命された、今川氏の実質的な創始者でもあります。
この時代は、北条氏の鎌倉幕府から足利氏の室町幕府へと政権が移る、まさに日本史の転換期。
さらに南北朝の内乱が始まり、全国が動乱の渦に巻き込まれていきました。
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政(1333〜)
1333年(元弘3年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府討伐の号令を発します。
足利尊氏は当初幕府方でしたが、六波羅探題を攻め落とし、結果的に鎌倉幕府は滅亡。
翌1334年(建武元年)、後醍醐天皇による「建武の新政」が始まります。
しかし、公家中心の政治で旧幕臣(武士層)を軽視したため、武士の不満が高まりました。
中先代の乱と今川範国の家督相続(1335)
1335年(建武2年)、北条高時の遺児・北条時行が鎌倉を奪還し、建武政権に反乱を起こします。
これが「中先代の乱」です。
鎌倉を守っていた足利直義は敗走し、兄の足利尊氏が独断で鎌倉へ出兵して鎮圧します。
この戦いで功績を上げたのが、遠江の武士・今川範国でした。
範国はこの戦いで兄たち(頼国・範満・頼周)を失い、出家していた四男を除くと唯一の男子として家督を継承します。
そしてその功績により、1336年(建武3年)足利尊氏から遠江守護に任命されました。
ここから、今川氏が正式に「守護大名」として歴史の表舞台に登場します。
南北朝時代の始まりと今川範国の活躍
後醍醐天皇と足利尊氏の対立が深まり、南北朝の内乱が始まります。
遠江・駿河では、勢力が南朝と北朝に分かれて激しく争いました。
- 今川氏 … 北朝方(足利尊氏)
- 井伊氏 … 南朝方(井伊城を拠点)
- 狩野氏 … 南朝方(安倍城を拠点)
このように同じ遠江・駿河でも立場が分かれていました。

美濃国青野原の戦い(1337〜1338)
1337年、北畠顕家が北方から進軍し、今川範国ら足利方と激突。
1338年(建武5年)の青野原の戦いでは、今川範国が敵の背後を突くことで尊氏軍の劣勢を救いました。
この功績によって、今川範国は駿河国守護にも任命されます(同年)。
以後、遠江・駿河の両国を支配する守護として、今川氏の名は全国に知られるようになりました。
駿河浅間神社と「赤鳥」の伝説
今川範国は青野原合戦の際、「赤い鳥」を笠の印(かさじるし)にして出陣しました。
後に駿河国守護となった範国は、浅間神社を参詣した際に巫女から
「赤鳥は神の導きによるもの」と告げられ、以後、今川氏の旗印・馬印を「赤鳥」と定めます。
この伝説は、今川家が駿河浅間神社(現・静岡浅間神社)を厚く信仰する由来として語り継がれています。

守護としての職務と京都での活躍
範国は駿河・遠江の守護に任命されながらも、主な活動拠点は京都にありました。
当時の守護職は、領地経営よりも「朝廷儀礼」や「訴訟処理」など中央政務が中心で、範国も引付頭人(ひきつけとうにん)として訴訟裁定に関わっています。
晩年と家督継承の混乱
範国は90歳近くまで長寿を保ち、1384年(至徳元年)に没しました。
長男・今川範氏が守護職を継ぎ、二男・今川貞世(了俊)は文武両道の名将として九州探題にまで昇進します。
三男・氏兼は蒲原氏の祖、四男・仲秋の子孫は佐賀今川氏の祖となり、今川一族は全国に広がっていきました。
ただし、範国があまりにも長寿だったため、二代目範氏や孫の氏家が先に亡くなり、家督相続には混乱が生じています。
最終的に、孫の今川泰範が三代目として駿河守護を継承しました。
■ 今川範国ゆかりの地 〜福王寺(静岡県磐田市)〜
今川範国の墓は、静岡県磐田市城之崎の福王寺にあります。
もとは見付の定光寺にあったと伝えられますが、廃寺のため移転されました。
磐田市は、今川氏にゆかりの深い土地の一つであり、ここから駿河・遠江を統べる守護家の歴史が始まったのです。
🔻まとめ:今川範国が築いた「駿河今川氏」の基盤
- 今川範国は足利一門の血を引く、今川氏初代の守護。
- 中先代の乱・青野原の戦いで功績を立て、駿河・遠江を統治。
- 駿河浅間神社を篤く信仰し、「赤鳥」を今川家の旗印にした。
- 室町幕府の要職・引付頭人を務め、中央政務にも貢献。
今川義元に至る華やかな戦国期の陰には、この今川範国という礎の人がいました。
駿河・遠江の発展、そして静岡の歴史を語るうえで欠かせない存在です。
次章は、2代「今川範氏」を紹介します。
👉【次回】駿河今川氏の二代守護にして、室町幕府を支えた名将今川範氏です。


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