今川義元といえば、桶狭間の戦いで織田信長に討たれた“公家風の大名”というイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかし、彼の人生をたどってみると波瀾万丈。
もとは僧侶として生きるはずが、戦国の荒波にのまれていく――そんな人生でした。
幼少期 【 僧侶としての出発】
永正16年(1519)、今川氏親の五男として義元は駿府に生まれました。
母は公家・中御門宣胤の娘で、後に「寿桂尼(じゅけいに)」と呼ばれ、今川家を内側から支える名女性となります。
幼名は「芳菊丸(ほうぎくまる)」。
父・氏親は、名僧・太原雪斎(たいげんせっさい)を駿府に招き、芳菊丸の教育を託しました。
やがて芳菊丸は富士郡の善得寺で修行し、大永6年(1526)に父が亡くなると、兄・氏輝が家督を継ぎます。
享禄3年(1530)、芳菊丸は得度を受けて僧侶となり、「栴岳承芳(せんがくしょうほう)」と名を改めました。
京都・建仁寺で修行を積み、その後は妙心寺の大休宗休禅師のもとで禅を学びます。
まさに仏門に生きる道を歩み始めていたのです。
花倉の乱 ― 今川家を二分した兄弟争い
ところが、天文5年(1536)、運命の歯車が大きく動き出します。
兄・氏輝と次兄・彦五郎が、ある日突然、相次いで急死したのです。
これによって、今川家の後継者争いが勃発しました。
候補となったのは、三男・玄広恵探(げんこうえたん)と五男・栴岳承芳。
兄・恵探は側室の子で、花倉城に拠っており、弟・承芳は正室・寿桂尼の子。
家臣たちは外戚・福島氏の力が強まるのを警戒して、承芳を支持しました。
怒った恵探は花倉城に立てこもり、挙兵。
これが「花倉の乱」です。
しかし恵探側の勢力は弱く、あっけなく鎮圧。
恵探は瀬戸谷まで逃げ延びるも、普門寺で自害しました。
この一連の出来事はわずか数日――天文5年6月10日から14日までの短い期間のことでした。
こうして家督を継いだ承芳は還俗し、「今川義元」と名乗ります。
河東一乱 ― 北条氏との抗争
家督を継いだ義元の最初の試練は、隣国・北条氏との戦いでした。
天文6年(1537)、義元は武田信虎の娘を妻に迎え、甲駿同盟を結びます。
しかしこれが、北条氏綱の怒りを買いました。
天文7年(1538)、北条軍が駿河に侵攻。
富士川以東の地域を占領し、さらには遠江の堀越氏や三河の戸田氏らも北条方につき、今川家は四面楚歌となります。
援軍として武田信虎や上杉朝興が駆けつけましたが、領地を奪い返すには至りませんでした。
これが「第一次河東一乱」です。
その後、情勢は再び動きます。
天文14年(1545)、義元は上杉方と手を結び、北条氏を挟み撃ちにする形で「第二次河東一乱」を起こしました。
結果、北条氏は駿河から撤退し、義元は失地を完全に回復。
今川家は再び安定を取り戻しました。
三河への進出 ― 松平家と竹千代(徳川家康)
東の脅威を退けた義元は、西へと目を向けます。
天文15年(1546)、三河の今橋城(現・豊橋市)を攻め落としました。
このとき、今川に助けを求めていたのが松平広忠――徳川家康の父です。
広忠は織田信秀の圧力から逃れるため、今川氏に庇護を願い出ていました。
そして息子・竹千代(家康)を人質として駿府へ送ることを決めます。
ところが、田原城主・戸田宗光父子に裏切られ、竹千代は途中で織田方の人質にされてしまいました。
激怒した義元は田原城を攻め落とします。
小豆坂の戦いと人質交換
天文17年(1548)3月19日、小豆坂(現・愛知県岡崎市)において、
今川義元軍と織田信秀軍が激突。
この戦いは、三河をめぐる今川氏と織田氏の勢力争いの一環であり、
結果は今川軍の勝利に終わった。
敗れた織田信秀は、長男の織田信広を安城城に残したまま尾張へ退却。
勝利を収めた今川方の軍師・太原雪斎は、この機を逃さず安城城攻略を計画する。
翌天文18年(1549)11月8日、今川軍は安城城を急襲し、翌9日に織田信広を捕縛した。
雪斎は信広を人質交換の材料とし、尾張の笠寺で松平広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)との交換を行った(11月10日)。
竹千代は再び今川氏の人質として駿府に送られ、太原雪斎のもとで学問と政治の教育を受けることとなる。
当時竹千代はわずか8歳だった。
こうして三河は今川氏の支配下に入り、岡崎城には今川の家臣・朝比奈泰能や鵜殿長持らが配置された。
駿府での竹千代(徳川家康)
竹千代は駿府で太原雪斎の指導を受け、文武両道の教育を受けた。
雪斎は臨済宗建仁寺派の僧侶で、外交・軍略に優れた今川義元の腹心。彼のもとで竹千代は仏典や儒学を学び、政治感覚を磨いていく。
この時期、義元は竹千代を「松平元信」と改め、後に「松平元康」と名乗らせる。
織田信長の登場
一方、織田信秀は天文21年(1552)に死去し、子の織田信長が家督を継ぐ。
その後、三河と尾張の国境地帯では小競り合いが続き、今川方の松平勢が前線に立った。
松平元康(家康)は義元の命で数々の戦いに出陣し、実戦経験を積んでいく。
甲相駿三国同盟 【東国の安定をもたらす大同】
天文19年(1550)、義元の妻(武田信虎の娘)が亡くなり、同盟関係が不安定になります。
そこで義元は、長女を武田信玄の嫡男・義信に嫁がせました。
さらに北条氏康の嫡男・氏政と信玄の娘が婚姻し、三国の関係が深まります。
天文23年(1554)、義元・信玄・氏康の三者が富士の善得寺で会談し、
「甲相駿三国同盟」が結ばれました。
この同盟によって東国は安定を取り戻します。
雪斎の外交手腕が光る場面です。
太原雪斎の死と今川氏の転機
弘治2年(1556)、太原雪斎が死去。
雪斎の死は今川氏にとって痛手でした。
それ以降、今川家の内政・外交は次第に弱体化する。
それでも義元は尾張への侵攻を続け、織田氏との対立を深めていった。
太原雪斎の功績
雪斎は若くして京都の建仁寺で修行し、臨済宗の高僧として頭角を現します。
その才能を見込んだのが、今川氏親でした。
雪斎は義元の幼少期から教育係を務め、後に家督を継いだ義元の参謀となります。
外交面では「甲相駿三国同盟」を成立させ、軍事面では「小豆坂の戦い」で織田信秀を破るなど活躍します。
また人質となった竹千代の教育係として、学問から礼法、儒学を教えました。
徳川家康が征夷大将軍まで出世できたのも太原雪斎の指導の賜物でしょう。
桶狭間の戦い ― 天下への道半ばに散る
永禄3年(1560)、義元は尾張侵攻を開始。
目的は西三河を平定し、京へ進出する足がかりを築くことでした。
5月12日、義元本隊は駿府を出陣。
続いて掛川、引間(浜松)、吉田(豊橋)を経て、岡崎へ進軍します。
そして18日、沓掛城に本陣を置きました。
この時、松平元康(家康)は先鋒として丸根・鷲津砦を攻略し、織田方の守将を討ち取ります。
しかし、その翌日――
義元が桶狭間の田楽ヶ窪で昼食を取っていた最中、
信長の奇襲部隊が突然襲来。
激しい雨の中、精鋭2000の突撃を受け、義元は奮戦むなしく討たれました。享年42。
天下を狙った名将の最期は、あまりにも早すぎるものでした。
| 年代 | 出来事 |
|---|---|
| 1548 | 小豆坂の戦い(今川義元の勝利) |
| 1549 | 松平広忠死去、竹千代が駿府へ(人質) |
| 1556 | 太原雪斎死去 |
| 1560 | 桶狭間の戦い、今川義元討死 |
| 1560以降 | 家康、今川家から独立 |


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