戦国大名・今川家の中で、静岡の歴史に欠かせない人物といえば今川義元が有名ですが、
その義元の兄にあたるのが、八代目当主・今川氏輝(1513〜1536)です。
短い生涯の中で、今川氏輝は領国の安定と商業の発展に尽くし、
その陰で母・寿桂尼(じゅけいに)が見事に政務を支えました。
この記事では、氏輝の治世と寿桂尼の活躍を、静岡・駿河の歴史からわかりやすく紹介します。
14歳で家督を継いだ若き今川氏輝
大永6年(1526)、名将・今川氏親が亡くなり、
嫡男の氏輝が14歳で家督を継ぎました。
まだ若年だったため、母の寿桂尼が政治を補佐し、
内政や外交の舵取りを実質的に担っていきます。
当初の氏輝は、偉大な父・氏親の方針を引き継ぎ、
穏やかな政治を行っていましたが、
やがて彼自身の手で新しい政策を打ち出していくことになります。
商業振興と軍制改革 ― 江尻の「三斎市」を開く
今川氏輝の代表的な功績のひとつが、
「馬廻衆(うままわりしゅう)」の創設と商業の振興策です。
馬廻衆とは、戦国大名に直属する精鋭家臣団で、のちの武田や織田にも影響を与えた制度。
今川家では氏輝の代で初めて体系化され、軍の統率力が高まりました。
また、経済面では駿府の外港・江尻(現・静岡市清水区)に注目。
ここに「三斎市(さんさいいち)」という定期市を設け、
商人たちを優遇して商業を発展させました。
月に3回開かれるこの市では、
江尻宿の商人宿を中心に、
屋敷役(税)の免除などが行われ、
駿河の流通経済を大きく動かしたといわれています。
この政策が、後の清水港の発展にもつながっていきます。
教養人としての氏輝 ― 和歌と連歌を愛す
父・氏親の影響を強く受けた氏輝は、武勇だけでなく文化にも造詣が深い人物でした。
大永6年(1526)には連歌会を開催しており、
和歌や文芸を重んじる「文化人」としての一面も持っていました。
当時の駿府は、京文化が伝わる洗練された都市でもあり、
今川家の教養の高さを示す出来事といえるでしょう。
山中の戦い ― 武田信虎との激突
領国経営が安定するにつれ、今川家は富士川以東まで勢力を伸ばしていきます。
駿東郡の有力国人・葛山氏も服属し、今川支配はさらに強まりました。
しかし、隣国・甲斐国(山梨県)の武田信虎はこれを快く思わず、
両者の緊張が高まっていきます。
天文4年(1535)、ついに今川・武田の両軍が**万沢口(甲駿国境)**で衝突。
「山中の戦い」と呼ばれるこの戦で今川軍は一時敗北しますが、
援軍として北条氏綱(相模国)が参戦し、武田軍は撤退。
この戦いを通じて、今川・北条の絆はより強固なものとなりました。
突然の死と家督争い ― 花倉の乱へ
しかし、平穏は長くは続きません。
天文5年(1536)、今川氏輝が突然この世を去ります。
さらに同じ日に弟の彦五郎も亡くなるという、
謎めいた事件が発生しました。
この「今川家の二重の死」をきっかけに、
玄広恵探(げんこうえたん)と栴岳承芳(せんがくしょうほう)(のちの今川義元)の間で後継者争いが勃発します。
これが有名な花倉の乱です。
氏輝の墓は、静岡市葵区の臨済寺に現存しています。
女戦国大名・寿桂尼 ― 今川家を導いた名補佐役
氏輝を支え続けた母・寿桂尼(じゅけいに)は、
公家・中御門宣胤の娘で、今川氏親の正室。
1490年頃に生まれ、永正2年(1505)に氏親と結婚。
永正10年(1513)に氏輝を出産しました。
夫・氏親、息子・氏輝を失ったのちも、
彼女は後を継いだ今川義元を助け、
家中をまとめ上げ、外交・政務を見事にこなしました。
その実力から「女戦国大名」「駿河の女傑」とも呼ばれています。
永禄11年(1568)に没し、墓所は静岡市葵区沓谷の龍雲寺にあります。
まとめ ― 氏輝が築いた基盤が義元の黄金期へ
今川氏輝の治世はわずか10年あまりでしたが、
彼が行った商業振興や軍制改革は、
のちの今川義元による「駿河の黄金期」を支える重要な基盤となりました。
そして、その背景には、母・寿桂尼という
類まれな女性リーダーの存在がありました。
静岡・駿府の街づくりや経済発展の原点をたどると、
そこにはこの親子の努力と知恵が息づいています


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