今川氏親(1471〜1526)は、駿河の名門・今川氏の七代目にあたる人物です。
父・今川義忠が塩買坂の戦いで討ち死にしたとき、氏親はわずか6歳(異説あり)。幼名を「龍王丸」といい、まだ幼かったことから家中では家督をめぐる争いが起こりました。
このとき、一族の中から擁立されたのが小鹿範満。彼は今川範政の孫であり、堀越公方・足利政知の重臣上杉政憲の娘を母に持っていました。そのため、堀越公方や扇谷上杉定正らが駿河の家督問題に介入し、今川家は混乱に陥ります。
幼い当主「龍王丸」と家督争いの幕開け
伊勢新九郎(北条早雲)の仲裁
この争いを収めたのが、のちの北条早雲こと伊勢新九郎でした。
彼は龍王丸の母・北川殿の弟、つまり龍王丸の叔父にあたる人物です。
伊勢新九郎は「内乱になれば今川家は滅亡する」と訴え、龍王丸が成人するまでの間、小鹿範満が一時的に家督を代行するという和談を成立させます。
龍王丸はこの間、焼津市小川の法永長者(長谷川政宣)の屋敷に身を寄せ、静かに成長していきました。
駿府奪還と氏親の家督相続
文明11年(1479)、伊勢新九郎は龍王丸の正統な継承を幕府に認めさせるため上洛し、将軍・足利義政から御内書を得ます。
しかし、龍王丸が成人しても小鹿範満は家督を譲らず、ついに長享元年(1487)、伊勢新九郎の援助を受けて駿府館を急襲。小鹿範満を討ち取り、龍王丸は正式に家督を継ぎました。
これが、のちに戦国大名・北条氏として名を馳せる伊勢新九郎(北条早雲)の初陣でもありました。
領国拡大と今川家の飛躍
氏親は叔父・早雲の支援を受けて三河への進出を図ります。
明応3年(1494)には今川軍が遠江の諸郡を制圧し、文亀年間(1501〜1503)には三河の岡崎・岩津まで勢力を広げました。
しかし、永正5年(1508)ごろ早雲が伊豆・相模方面に進出すると、今川領は一時的に不安定に。斯波氏との激戦が続きましたが、永正13年(1516)に引馬城(現・浜松市)の大河内氏を滅ぼし、遠江の支配を確立しました。
以後、氏親は駿河と遠江の安定に力を注ぐことになります。
公家との縁組と文化の隆盛
氏親は永正2年(1505)または永正5年(1508)に、京都の公家・中御門宣胤の娘と結婚します。
この女性こそ、後に「駿府の尼御台」と呼ばれる寿桂尼です。
嫡男・氏輝をはじめ6人の男子に恵まれ、今川家の繁栄を支えました。
文化人としての氏親も見逃せません。
和歌や連歌を愛し、三条西実隆の指導を受け、駿河出身の連歌師・宗長を厚く遇しました。宗長は丸子に草庵を構え、後に吐月峯柴屋寺の主として定住。氏親は1502年の十五夜に宗長や宗祇とともに月見の連歌会を開いています。
このように、京都文化を駿河に根づかせた功績は大きいものです。
戦国大名としての今川氏親
今川氏親は、父・義忠までの「守護大名」から一歩進み、戦国大名としての体制を築いた人物です。
その理由は3つあります。
- 検地の実施:土地と農民を直接支配する制度を導入。
- 荘園制の否定:守護不入の特権を廃止し、領国を一体化。
- 分国法「今川仮名目録」の制定:幕府に依存しない独自の法体系を整備。
永正15年(1518)には遠江・相良庄で検地を行い、その記録が今も牧之原市の般若寺に残されています。
また、安倍金山(井川・梅ヶ島など)の開発にも着手し、坑道掘りによる金鉱採掘を本格化させました。経済力の強化とともに、今川家は戦国大名としての基盤を確立したのです。
晩年とその功績
大永6年(1526)、今川氏親は56歳で没しました。
葬儀は駿府の増善寺で盛大に執り行われ、駿河・遠江の人々に深く悼まれました。
今川氏親こそ、今川義元の栄華を支える土台を築いた人物であり、政治・経済・文化の三面において駿河を発展させた戦国初期の名君といえるでしょう。
🏯参考・ゆかりの地
- 焼津市小川(法永長者・小川城跡)
- 静岡市駿河区丸子(吐月峯柴屋寺)
- 牧之原市大沢(般若寺・相良庄検地写本)
- 駿府 増善寺(氏親の葬地)


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