今川貞世(いまがわ・さだよ)は、今川範国の次男として1326年(嘉暦元年)に磐田の見付城で誕生しました。
兄は武勇に優れた今川範氏。弟でありながら、父から後継者に望まれるほどの才能豊かな人物でした。のちに出家し、「今川了俊(いまがわ・りょうしゅん)」と名乗ります。
🌸幼少期と和歌の才能
今川貞世は幼いころから文学に親しみ、祖母・香雲院のもとで和歌を学びました。
20歳前後には藤原定家の孫にあたる冷泉家の門弟となり、和歌の世界で頭角を現します。
1345年(康永4年)、『風雅和歌集』の編纂が始まると、父範国の推薦で貞世の歌が採用され、若くして文人としての地位を確立しました。
⚔観応の擾乱と武士としての活躍
1350年から始まった「観応の擾乱」では、今川家は幕府内の争いに巻き込まれます。
1355年、足利尊氏が京都奪還のため出陣した際、今川貞世も参戦。
以後、南朝勢力が京都を4度も制圧する混乱の中で、武将としても頭角を現していきます。
🏯鎌倉公方・足利基氏との関係
当時の鎌倉公方・足利基氏(あしかがもとうじ)は和歌に造詣が深く、冷泉家を通じて貞世と交流がありました。
この縁をきっかけに、貞世は鎌倉府や幕府の信頼を得ていきます。
👑幕府中枢への登用
1365年(貞治4年)に兄・範氏が亡くなると、貞世は幕府の重職に就任。
翌年、侍所頭人(さむらいどころのとうにん)および引付頭人に任命され、京都の治安維持と政務を担いました。
その実力と誠実さは、幕府内でも高く評価されていました。
🕊出家と「今川了俊」への改名
1367年、2代将軍足利義詮が死去すると、貞世は出家して「今川了俊」と名乗ります。
当時、3代将軍足利義満はまだ10歳ほど。実権は執事・細川頼之が握っていました。
⚔九州探題に抜擢 ― 南朝征西府との戦い
1370年(応安3年)、細川頼之の推挙により、今川了俊は九州探題に任命されます。
九州は南朝勢力が強く、幕府にとって最大の不安定地でした。
了俊は弟の氏兼・仲秋、息子の貞臣らと共に九州へ渡り、1371年(応安4年)には菊池氏を降伏させ、太宰府を奪還。
以後20年にわたる戦いで九州を平定し、1390年には南朝勢力を一掃します。
その功績によって、南北朝の合一(1392年)という日本史上の大転換を支える立役者の一人となりました。
⚡九州探題からの転落
しかし、九州平定後に他の守護たちと対立が深まります。
1394年(応永元年)には島津氏、翌1395年には大友氏と衝突。
劣勢に追い込まれた了俊は京都へ退却し、九州探題を解任されました。
その後、駿河・遠江の「半国守護」として再任されましたが、幕府との関係は次第に冷え込んでいきます。
💥応永の乱と失脚
1399年(応永6年)、大内義弘が挙兵して起きた「応永の乱」。
了俊は直接参戦しなかったものの、大内氏と内通していたと疑われ、幕府から追及を受けます。
最終的に赦免されますが、領地は没収され、政治的地位を完全に失いました。
✍晩年と『難太平記』
失意の中、今川了俊は遠江国堀越(現在の袋井市堀越)に隠棲し、執筆活動に専念します。
1402年(応永9年)には『難太平記』を著し、南北朝動乱を冷静に記録しました。
この書には、足利義満への批判も含まれており、了俊の知性と信念が感じられます。
また、「徒然草」の作者・吉田兼好とも親交があり、兼好没後はその弟子・正徹を庇護しました。
正徹が後に徒然草を整理したことから、了俊もその成立に深く関わったと考えられています。
🌸今川了俊ゆかりの地
1403年(応永10年)、袋井市堀越に海蔵寺を開き、そこを終の棲家としました。
1420年(応永25年)、了俊は96歳で逝去。室町時代でも珍しいほどの大往生でした。
現在も海蔵寺には今川了俊の墓があり、その知と勇の足跡を静かに伝えています。

🌿今川了俊の系譜 ― 堀越氏の祖へ
了俊の子孫は、遠江国堀越を拠点に「遠江今川家」として独立。
のちに堀越氏を名乗り、今川本家(駿河今川家)とともに戦国時代へと続いていきます。

🕊まとめ
今川了俊は、
「和歌の才を持つ文化人」でありながら、「九州を平定した知将」でもあった人物。
幕府の信頼を得て九州探題として栄華を極めながらも、最晩年は権力から退き、筆一本で歴史を記したその姿は、まさに「知の戦国武将」といえるでしょう。


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