今川範氏(1316-1360)の活躍した室町時代初期は、実に混沌とした時代でした。
嫡男の今川範氏は武勇に優れ、弟の今川貞世は後に九州探題になるなど、今川家の存在感が増していく時代になります。
1334 | 建武元年 | 後醍醐天皇による建武の新政 |
1335 | 建武2年 | 中先代の乱が勃発 |
南北朝の内乱 | ||
1336 | 建武3年・延元元年 | 建武式目を制定し室町幕府成立 |
1338 | 建武5年・延元3年 | 足利尊氏が征夷大将軍となる |
1349 | 貞和5年・正平4年 | 足利基氏を鎌倉公方に任命 |
1351 | 観応2年・正平6年 | 観応の擾乱 |
1358 | 延文3年 | 足利義詮が2代征夷大将軍となる |
1369 | 応安元年 | 足利義満が3代征夷大将軍となる |
1392 | 明徳3年 | 北朝の後小松天皇が即位する形で南北朝合一 |
1399 | 応永6年 | 応永の乱 |
観応の擾乱(1350〜)
室町幕府は兄足利尊氏が武家の棟梁として侍所、恩賞方、政所、弟足利直義が問注所、官途奉行、引付方などの政務の統括者とする分業制で初期は上手くいっていました。しかし、尊氏の執事である高師直と足利直義に軋轢が生じします。
そして1350年(観応元年)に足利直義は京都を抜け出し高師直討伐を呼びかけます。これが観応の擾乱の始まりです。1351年(観応2年)足利直義が高師直を討ちましたが、今度は足利尊氏・義詮親子と足利直義が対立します。
足利直義には子がいませんが、足利尊氏の落胤で東勝寺の僧侶をしていた子を還俗させ、容姿として足利直冬と名乗らせます。
観応の擾乱と今川氏の動向
父今川範国は引付頭人をしており、直義に近い存在だったので、高師直討伐では足利直義側で参戦したが、積極的には動いていませんでした。兄弟対立した時は足利尊氏側についています。
今川範氏は当初から足利尊氏側で参戦しています。足利直義が南朝勢力と手を結んだため、今川範氏は南朝勢力の井伊氏や狩野氏、足利直義勢力の石塔氏と戦うこととなります。
薩埵峠の戦い
1351年(観応2年)7月、足利尊氏と足利直義は薩埵峠で衝突します。薩埵峠の戦いで足利尊氏が勝利し、一気に鎌倉を制圧します。足利直義は降伏後まもなく毒殺されます。これで観応の擾乱は終結しました。
この戦いにおいて活躍したのが今川範氏でありました。足利尊氏から「一人当千」と書かれた感状をもらっています。
今川範氏の守護就任
今川範氏は1352年(観応3年)、恩賞として遠江守護職となりました。
しかし半年後、遠江守護職は父の今川範国に代わっています。その頃の範氏は、武力に長けていたけど政務は苦手だったようです。
その後1353年(観応4年)今川範氏は駿河守護職に任命され、亡くなるまで在職します。
南朝勢力との戦い
武力に長けていた今川範氏は、京都で任務につく父範国に代わって、駿河・遠江両国の総大将となって南朝勢力と戦います。
1353年(文和2年)今川範氏は南朝勢力の石塔氏を攻撃、駿河安倍城、大津城(島田市)、徳山城(川根本町)で勝利し、足利尊氏から感状をもらっています。
1361年頃になると石塔氏は北朝の年号を使用し始めているため、北朝勢力と争わなくなります。駿河や遠江では他の地域より早く、南北朝の内乱は終結しました。
今川範氏の家督問題
今川範氏には二人の男子がいました。長男氏家・二男泰範で、今川範氏は長男氏家を3代目を継がす予定でおり、次男泰範は鎌倉の建長寺に出家させています。
父範国より先に亡くなる
今川範氏は1365年(貞治4年)、父範国より先に没します。ここで範国は、類まれな才能をもつ今川貞世もしくは貞世の子である貞臣を後継者にしようと企てました。しかし貞世の方から範氏を慮って辞退し、範氏の子氏家を後継者にするため尽力します。その後、将軍足利義詮から氏家を守護とする補任状が出されました。
嫡男氏家の早世、泰範の還俗
これにて3代目氏家が誕生するかに見えました。しかし氏家がまさかの早世します。時期は定かではありませんが、1369年以前だと考えられています。
氏家が亡くなったため、今川了俊は出家していた範氏の次男を還俗させます。
範氏の次男は還俗して今川泰範を名乗り、3代目今川泰範として家督を継承していきます。
今川範氏ゆかりの地
島田市にある慶寿寺は、1345年(貞和元年)範氏が京都から南江和尚を招いて開山されました。
当時は今川城としても利用しました。今川範氏の菩提寺となっています。

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