今川氏の歴史8.「応仁・文明の乱で散った戦国大名」6代今川義忠

今川氏の歴史

今川氏の第6代当主、今川義忠が家督を継承したのは1461年です。この時代は、室町幕府の第8代将軍である足利義政(在職:1449年〜1474年)が治めていた時期にあたります。義政の妻は、あの有名な日野富子です。

1436年(永享8年)今川義忠生まれる
1438年(永享10年)永享の乱が勃発
1439年(永享11年)足利義政生まれる
1440年(永享12年)結城合戦
1441年(嘉吉元年)嘉吉の乱(足利義満が暗殺される)
足利義勝が征夷大将軍に就任(7代目)
1443年(嘉吉3年)足利義勝が没する
足利義政が征夷大将軍に就任(8代目)
1449年(宝徳元年)足利成氏が鎌倉公方に就任
1454年(享徳3年)享徳の乱
1457年(長禄元年)足利成氏が古河公方を名乗る
足利政知が堀越公方に就任
1459年(長禄3年)中遠一揆が起こる
1461年(寛正2年)今川範忠没する
今川義忠が家督を継承(6代目)
1467年(応仁元年)応仁・文明の乱が起こる
今川義忠と北川殿が結婚
1471年(文明3年)龍王丸(のちの氏親)が生まれる。
1476年(文明8年)横地氏と勝間田氏を討つ。
塩買坂で今川義忠討たれる。
目次

関東の混乱:鎌倉公方の分裂

当時の関東では、戦乱による大きな動きがありました。

古河公方の誕生

1457年、鎌倉にいた鎌倉公方・足利成氏(しげうじ)が追放され、本拠地を下総の古河(こが)に移し、「古河公方」と名乗るようになりました。

将軍義政は関東を掌握するため、一族の渋川義鏡(しぶかわよしかね)を武蔵守護・探題に任命し、武蔵の蕨(わらび)に派遣しました(長禄元年/1457年)。しかし、古河公方が依然として関東の武士たちから厚い支持を得ていたため、幕府は関東を抑えきれませんでした。

堀越公方の誕生 

そこで幕府は、京都の天龍寺の僧だった将軍義政の弟を還俗させ、新たな鎌倉公方として関東へ送りました。これが足利政知(まさとも)です。しかし、政知も鎌倉へ入ることができず、伊豆の堀越(ほりごえ)を新たな本拠地とせざるを得ませんでした。
これにより、足利政知は「堀越公方」と呼ばれるようになります。

結果として、鎌倉公方は「古河公方」と「堀越公方」の二つに分裂し、関東地方の混乱は深まりました。

今川義忠の動向

この情勢の中で、今川義忠は、幕府が新たに擁立した堀越公方・足利政知につくよう要請されています。

遠江の今川氏と斯波氏の対立

遠江の守護職は、かつては今川泰範(やすのり)の時代まで今川氏が断続的に務めていました。しかし、この義忠の時代には、斯波(しば)氏が代々守護職を世襲していました。

遠州中部の国人一揆(1459年)

1459年(長禄3年)、斯波氏の内紛に乗じて、原氏、小笠原氏、久野氏など、遠州中部(中遠)の国人領主たちが斯波氏に対して一斉に反乱を起こしました(中遠一揆)

この一揆は幕府によって追討を受け、今川範将(のりまさ)が駿河国の葉梨郷(はなさと)で敗死しました(1464年)。この範将は、今川貞世(了俊)の曾孫にあたります。この結果、遠江今川氏の所領は没収されることになりました。

応仁の乱と今川義忠の参戦

1467年から始まった応仁・文明の乱は、斯波氏や畠山氏といった有力守護家の後継者争いに、将軍足利義政の弟と子の跡目争いが絡み、さらに管領の細川勝元と山名宗全という二大勢力の対立が結びついて拡大した大乱です。

細川勝元の東軍(約16万)と、山名宗全の西軍(約11万)が京都を舞台に大規模な戦闘を繰り広げ、戦乱は次第に地方へ波及していきました。

今川義忠は、この乱において東軍に加勢します。これは、遠江守護である斯波義廉(よしかど)が西軍に属していたためと考えられています。

東軍の細川勝元は、西軍諸将の足元を乱すための策として、遠江守護である斯波氏に対抗させるため、今川義忠を在地(駿河)へ下向させました。義忠は1468年(応仁2年)に駿河に戻り、1470年(文明2年)にも上洛した後、帰国しています。

北川殿との結婚

今川義忠は、北川殿と結婚しています。この結婚は今後の今川氏の歴史に非常に影響を与えることとなります。

北川殿は、伊勢盛貞(いせもりさだ)の娘であり、後に北条早雲として歴史に登場する伊勢宗瑞(いせそうずい)の姉にあたります。北川殿は京都の名門の出であったため、義忠は上洛中に結婚したものと見られています。

(地名に関する情報:北川は、浅間神社のあたりから曲がって北へ向かい、浅畑沼へ流れていた川からの名前で、彼女の屋敷は臨済寺のあたりにあったとされます。北川殿の没後(1529年)、その地に善得院が建てられ、後に臨済寺となりました。)

遠江への本格的な進出

1473年(文明5年)、今川義忠は、将軍義政から遠江国・懸革荘(かけがわしょう、現在の掛川市)の代官に任命されました。

遠江守護は斯波氏でしたが、守護が隣国の今川氏を代官に補任するという複雑な状況が生まれます。斯波氏は、遠江の他に尾張と越前の守護も兼ねていたため、ほとんど遠江には在国していませんでした。さらに、本来守護代を務める甲斐氏(かいし)も越前の守護代を兼任しており、結果として遠江は支配らしい支配がほとんど及んでいない状況でした。

この混乱の中で、遠江では多くの国人領主たちが独自の権力を握っていました。

  • 遠江の中心地:見付には狩野氏、引間(ひくま、現在の浜松)には巨海氏、大河内氏
  • 浜名湖周辺:浜名氏、井伊氏
  • その他の地域:天野氏(周智郡)、奥山氏(水窪・佐久間)
  • 中遠・東遠:堀越氏(今川範将の後裔)、原氏(掛川周辺)、横地氏、勝間田氏

斯波氏との直接対決と義忠の最期

1474年(文明6年)頃から、今川義忠は遠江への本格的な進出を開始します。これを察知した斯波氏も動き出し、1475年(文明7年)からは今川氏と斯波氏の二大勢力が直接対決する状況となりました。

1476年(文明8年)、東遠の国人領主であった横地氏勝間田氏が斯波氏側に寝返り、義忠によって陥落させられた見付城を修復して立て籠もりました。義忠はこれを攻め落とし両氏を討ちました。

さらに横地氏と勝間田氏の本拠地を攻めに向かう途中、不覚に合います。
塩買坂(しおかいざか)にて、両氏の残党による不意打ちに遭い、討ち死にしてしまいました。

この時、嫡男である氏親(うじちか)はわずか6歳でした。これにより、今川家は再び大きな困難に直面することになります。

今川義忠ゆかりの地

今川義忠は1476年(文明8年)塩買坂で討たれました。塩買坂は菊川市と牧之原市の境目にあります。菊川市東横地に横地氏居城であった横地城跡、牧之原市勝田に勝間田氏の居城であった勝間田城跡があります。

1517年(永正14年)に今川氏親が弔いのため、塩買坂に昌桂寺を建立、後に正林寺(菊川市高橋497)となります。正林寺には今川義忠の墓があり、また「今川義忠の木像」が安置されてます。

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