4代目の今川範政は、1364年に今川泰範の長男として生まれます。
1409年(応永16年)に父泰範の死去にともない、家督を継承しました。南北朝の内乱が終結し、守護の役割が鎌倉時代より強化された時代です。
1364年(貞治3年) | 今川範政生まれる |
1392年(明徳3年) | 南北朝合一 |
1394年(応永元年) | 義満が征夷大将軍を辞任 |
足利義持が征夷大将軍に就任(4代目) | |
足利義満が太政大臣に任命 | |
足利義教生まれる | |
1400年(応永7年) | 今川泰範、駿河遠江2ヶ国の守護になる |
1407年(応永14年) | 足利義量生まれる |
1408年(応永15年) | 足利義満没する |
1409年(応永16年) | 今川泰範没する |
今川範政家督を継承(4代目) | |
1416年(応永23年) | 上杉禅秀の乱 |
1423年(応永30年) | 足利義量が征夷大将軍に就任(5代目) |
1425年(応永32年) | 足利義量没する |
1428年(応永35年) | 足利義持没する |
足利義教征夷大将軍に就任(6代目) | |
1432年(永享4年) | 足利義教富士山遊覧 |
1433年(永享5年) | 今川範政没する |
鎌倉時代の守護職には「大犯三箇条」の権限が与えられていました。
- 大番催促(管内御家人に対する軍事指揮権)
- 謀反人の検断
- 殺害人の検断
1は幕府の命で軍を派遣すること。2は領地に謀反人がいたら裁くこと。3は重罪人を厳しく処分することです。
鎌倉時代からの守護は直接土地を支配したり、領内の御家人を直接支配できなかった。南北朝の動乱で合戦に出かけることきっかけに、守護は地頭・御家人らに対し、直接的な被官関係が結べるようになった。
半済は軍費調達のために1年間、8ヶ国に限定して認められていたが、なし崩し的に他国でも認められるようになった。
役割が拡大されたことで、領地で力をつけ守護から守護大名と呼ばれるようになります。
今川範政の時代には守護大名と呼ばれるようになりました。
南北朝合一後の室町時代
1392年(明徳3年)3代将軍足利義満の時代に南朝と北朝が一つになり争いが終結しました。その後、足利義満は征夷大将軍を辞任し、1394年(応永元年)から足利義持が4代目征夷大将軍になりますが、太政大臣となった足利義満は、有力守護を弱体化する政策を実行していきます。絶対的権力者となりましたが1408年(応永15年)に没します。
幕府と鎌倉府の対立
鎌倉時代は幕府が鎌倉にあり、京都を監視するため六波羅探題を設置していました。
室町時代は京都に幕府があったので、鎌倉を監視するため鎌倉府を設置し、そのトップが鎌倉公方です。
鎌倉府の管轄は、関東8州と甲斐・伊豆をプラスした10か国と、陸奥国・出羽国の東北2カ国があり、鎌倉公方が独自に守護を任命できるため、高い独立性がありました。
最初は足利尊氏の弟である足利直義、次いで長男の足利義詮を務めていましたが、義詮が2代征夷大将軍になるため、1349年(貞和5年)から足利尊氏の二男足利基氏が継ぎ、それ以降は基氏の子孫が世襲していきます。
しかし世代が変わっていくと幕府と鎌倉府に上下関係ができ、それが鎌倉公方から見れば面白くなく、次第に対立するようになっていきます。
鎌倉府と接する国は越後、信濃、駿河3カ国であり、越後は関東管領を努める上杉氏の守護領国なので鎌倉公方側であった。
信濃は小笠原・上杉・斯波が交代で守護についていましたが、1400年(応永7年)新しく補任された小笠原長秀が、国人領主の所領を認めない政策をとったため、管内の国人と衝突し、大塔合戦に発展してしまい、京都に帰ってしまう事態もあり安定しませんでした。
そんな中、今川氏は範国以来、安定した領国支配を展開していたので、幕府の信頼が厚く、しかも駿河は京都と鎌倉を結ぶ東海道筋にあったので、次第に今川氏は幕府から重要な任務を課せられます。
上杉禅秀の乱
1416年(応永23年)鎌倉公方足利持氏が常陸の越幡六郎の所領を没収した際に、関東管領の上杉禅秀が諫言し、それが採用されないので関東管領を辞退しました。ここで足利持氏が慰留せず、しかも足利持氏は上杉禅秀と対立関係にあった、上杉憲基に関東管領を与えてしまいました。
関東管領の上杉氏は家系が別れていて、上杉禅秀は犬懸上杉家で、上杉憲基は山内上杉家です。
上杉禅秀は、四代目将軍足利義持に反旗を翻そうと狙っていた義持の弟足利義嗣や持氏の叔父である足利満隆らも誘い、1416年(応永23年)十万三千騎の大軍を率いて鎌倉の足利持氏邸を急激しました。
足利持氏は管領上杉憲基とわずかな兵で防戦しましたが、敗れて小田原に逃れ、さらに箱根権現まで逃げます。
箱根権現の別当をつとめていた証実が、駿河駿東郡の領主大森氏頼の弟だったので、ひとまず大森氏の所に潜みますが、甲斐の武田信満が禅秀につき、来襲してくる噂があったため、今川範政を頼ることとなり、駿河の瀬名にある安楽寺に逃げこみました。
ここで今川範政は、京都に使者を送り、将軍足利義持に働きかけます。幕府と関東公方は対立関係にありましたが、上杉禅秀の勢力が強くなることを恐れ、足利義持は上杉禅秀の討伐を命じます。そして駿河守護今川範政、越後守護上杉房方、信濃守護小笠原政康に出兵を命じました。
将軍の命令を受けた今川範政は三島に出陣し、葛山氏、大森氏といった駿東郡の国人領主を先鋒に命じ、足柄を越えさせ、朝比奈、三浦、小鹿氏といった今川氏の重臣たちも箱根を超えて鎌倉を攻める態勢を取りました。
さらに今川範政は上杉禅秀側の武将に、禅秀からの離脱を勧告する書状を送り、多くの武将が離脱させました。
翌年の1417年(応永24年)に上杉禅秀は自害し、乱は終結しました。足利持氏は鎌倉に帰還しました。
上杉禅秀の乱後、禅秀側の武士が残っており、鎌倉公方足利持氏は討伐にかかります。しかし関東公方の権限を逸脱しているため、1423年(応永30年)将軍足利義持は鎌倉公方持氏を討伐する命令を下します。それを知った足利持氏は京都に使者を送り、将軍家に忠誠を誓って事なきを得る事態が起きていました。
短命だった5代将軍足利義量(1407-1425)
その年(1423年)に足利義持は17歳になる嫡子の足利義量に将軍を譲ります。しかし5代目将軍就任わずか2年で亡くなってしまいます。足利義量は大酒飲みで、それが原因で体を壊したそうです。義持には後取りが一人しかおらず、ひどく落胆し1428年(応永35年)に亡くなってしまいます。
くじ引きで就任した6代将軍足利義政(1394-1441)
足利義持は後継者を決めていませんでした。管領や有力守護大名は次の将軍を誰にするか困惑します。そこで院満済准后の提案する義持の弟4人からくじ引きで選ぶという案に賛成しました。ちなみに足利義持の4人の弟は全て出家していました。ここで選ばれたのが青蓮院義円こと足利義教であります。
くじ引きで就任した6代目将軍足利義教就任に面白くない人物がいました。鎌倉公方の足利持氏です。義持が生前、持氏を養子にするという約束があったからです。足利持氏は事あるごとに将軍義教に楯突きました。この露骨な敵対行為に対して、持氏の出方を伺うために富士山遊覧の名目で、駿河まで下向します。
足利義教の富士山遊覧
1432年(永享4年)に富士山遊覧を名目として、足利義教が駿河国に下向します。
関東公方足利持氏が駿河に来るか見極めるためです。しかし持氏は病気を理由に顔を出しませんでした。これで後に行う持氏討伐を決心されたようです。
今川範政は将軍義教の富士山遊覧のために、駿河府中に望嶽亭を建て接待します。
この富士山遊覧で「富士紀行」の飛鳥井雅世、「覧富士紀」の尭孝、「富士御覧日記」の連歌師宗長などの文化人も同行しています。この富士山遊覧の日程は記録として残されております。
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今川範政の家督相続問題
今川範政には3人の男子がいましたが、後継者を嫡子の彦五郎ではなく、溺愛していた末子の千代秋丸(範頼)に望んでいました。1431年(永享3年)千代秋丸に相続したいため、幕府に申請しています。しかし母が扇谷上杉氏定の娘です。足利義教は鎌倉側の影響を受ける恐れがあるため、この申請を認めませんでした。
1432年(永享4年)に入ると彦五郎はショックを受けたせいか遁世してしまいます。遁世とは世俗を捨て仏門に入ることです。
1433年(永享5年)に入ると相続問題はさらに泥沼化します。沈黙していた二男の弥五郎(範勝)を支持する勢力が出現しました。幕府内部においても山名時熙が千代秋丸の相続を主張し、細川持之が弥五郎の相続を主張する事態となりました。最終的に将軍足利義教が彦五郎の相続すべきたと主張します。
この混乱の中の1433年(永享5年)に今川範政が亡くなりました。
範政は家督を継承することができませんでした。結果的に5代目は嫡子彦五郎が継承し、今川範忠を名乗ります。
文化人としての今川範政
今川範政は「新続古今和歌集」に2首撰ばれているように、歌人としても優秀でありました。
また万葉集や源氏物語の書写・校合の他、多数の古典の書写・校合を行っております。
今川範政の菩提寺は今林寺ですが、既に廃寺となっているようです。
今川範政が足利義教を接待するために建てられた望獄亭もどこにあるか不明です。
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