かなりの歴史好きでない限り、今川氏3代目を知る人は少ないでしょう。
今川泰範(1334-1416)は、3代将軍足利義満で室町幕府が一番権威を持っていた時代でした。
今川泰範は歴史的には地味な存在です。絶対権力を持つ足利義満の顔色を見ながら、駿河の守護を堅持したと推測します。
足利義満と今川泰範の経歴
1334年(建武元年) | 今川泰範生まれる |
1358年(延文3年) | 足利義満生まれる |
1367年(貞治6年) | 足利義詮死去により、義満が家督を継承 |
今川泰範家督を継承、駿河国守護になる | |
1369年(応永2年) | 足利義満が征夷大将軍に任命 |
1378年(永和4年) | 京都室町に幕府を移す |
足利義満が右近衛大将に任命 | |
今川泰範が侍所頭人に任命 | |
1379年(康暦元年) | 康暦の政変 |
1382年(永徳2年) | 相国寺を建立 |
1383年(永徳3年) | 足利義満が源氏長者となる |
1385年(至徳2年) | 東大寺・興福寺など参詣 |
1388年(嘉慶2年) | 足利義満の富士山遊覧 |
1389年(康応元年) | 足利義満の厳島神社参詣 |
土岐康行の乱 | |
1391年(明徳2年) | 明徳の乱、山名氏清を討伐 |
1392年(明徳3年) | 南北朝合一 |
1394年(応永元年) | 足利義満が征夷大将軍を辞任 |
足利義持が征夷大将軍に就任 | |
足利義満が太政大臣に任命 | |
1395年(応永2年) | 九州探題今川了俊を罷免 |
1399年(応永6年) | 応永の乱、大内義弘を討伐 |
今川泰範・了俊が駿河半国の守護になる | |
足利義満が金閣寺を造営 | |
1400年(応永7年) | 今川泰範、駿河遠江2ヶ国の守護になる |
1404年(応永11年) | 足利義満が明から日本国王の称号を受ける |
1408年(応永15年) | 足利義満没する |
1409年(応永16年) | 今川泰範没する |
足利義満は父義詮が早逝したため10歳で家督を継承しました。幼い頃は執事の細川頼之が補助しますが、徐々に頭角を表し南北朝の合一を成し遂げ、源氏長者や太政大臣まで上り詰めます。幕府のあった室町御所は花の御所と呼ばれ、四季折々の花が植えられた邸宅から権勢を振いました。
今川了俊の難太平記に書かれた大内義弘の言葉によれば、「強いものには弱く、弱いものは強い」。明から日本国王の称号を受けたり、力をつけてきた守護勢力を弱体化させたり、金閣寺を建立するなどの行動から見ると、的を射た表現ですね。
守護になるまでの今川泰範
今川泰範は1334年(建武元年)今川範氏の二男として生まれます。
長男の氏家が後を継ぐ予定のため、鎌倉にある建長寺に出家に出されました。
しかし範氏が1365年(貞治4年)に亡くなり、後継者の氏家が継ぎましたが、間もなく亡くなってしまいます。
今川範氏の父今川範国は、優秀である範氏の弟の今川貞世、または貞世の子貞臣を後継者にしようとしましたが、今川貞世は固辞し、出家していた泰範を還俗させます。
1372年(応安5年)今川泰範が家督相続し、京都に出仕しています。この時、泰範は39歳前後です。
その後、1376年(永和2年)将軍足利義満の若宮八幡宮参詣にて小侍所の任をこなし、1378年(永和4年)室町幕府の侍所頭人に任命されます。
足利義満が全盛期になるまで
足利義満は良くも悪くも天才政治家でした。足利義満に貢献した有力者を弱体化させ、絶対的権力者に上り詰めていきます。
康暦の政変1379年(康暦元年)
足利義満を補佐していた管領細川頼之と斯波義将、土岐頼康、山名氏清らが対立する。細川頼氏は讒言の責任によって一時失脚する。
足利義満の富士山遊覧1388年(嘉慶2年)
有力守護を監視する目的で足利義満が積極的に諸国を遊覧します。
1385年から5年間に大和東大寺、興福寺の参詣、厳島神社、高野山、越前気比神社などを遊覧しました。
1388年(嘉慶2年)には富士山を遊覧するため、駿河に下向します。
駿河守護の今川泰範は、駿河国で将軍足利義満を接待しました。
土岐康行の乱1389年(康応元年)
土岐頼康は尾張・美濃・伊勢の守護であったが、実子がなく、弟土岐頼雄の子である康行を養子にします。
土岐頼康死去後、三か国の守護は土岐康行が継ぎ、従兄弟の土岐詮直を尾張守護代・実弟の土岐満貞を足利義満の近侍にしました。
不満を持っていた土岐満貞を利用して、足利義満は土岐氏の分裂を図ります。足利義満は尾張の守護を取り上げ、土岐満貞に与えます。
これに激怒したのが尾張守護代の土岐詮直で、尾張に下向する途中の尾張黒田宿で待ち構えます。合戦となり土岐満貞は敗れ、京都に逃げ帰ります。
この行為で足利義満は、土岐康行・詮直を謀反人とし、土岐康行らは敗れて失脚します。
この乱後、尾張守護は引き続き土岐満貞、美濃守護には土岐頼忠、伊勢守護には仁木満長が任命される。その後、土岐康行は伊勢守護に復帰し、康行の子孫が伊勢守護を継承していく。
明徳の乱1391年(明徳2年)
山名氏は「六分の一殿」と呼ばれ、最盛期には11カ国の守護となっていた。土岐康行の乱で、土岐氏を弱体化したため、次は山名氏の弱体化に狙いを定めます。
足利義満は1390年(明徳元年)将軍に対し不遜な態度を示した山名時熙と氏之に、山名氏清と満幸に討伐を命じます。山名時熙と氏之は敗れて没落します。
1391年(明徳2年)今度は山名氏清と満幸の勢力が強まるのを恐れ、逃亡していた山名時熙と氏之を赦免します。その後、出雲守護を剥奪されたことで怒った満幸が、氏清とともに挙兵する。しかし京都の内野合戦で山名軍は敗れて、山名氏は3カ国の守護に減らされました。
今川泰範は討伐軍に加わり主力として戦ってます。
応永の乱1399年(応永6年)
大内義弘も足利義満と良好な関係を気づいていた。
しかし6カ国の守護となった大内義弘に対し、足利義満は警戒心を持つます。
北山第の造営の命に従わないこと、少弐氏討伐で弟満弘が討死したが恩賞がないこと、朝鮮使節から大内義弘が貢物を受け取っていたことなどで対立します。
足利義満は大内義弘上洛を促しますが、守護の剥奪や誅殺される可能性があるため命に背きます。
追い込まれた大内義弘は今川了俊の仲介で、鎌倉公方足利満兼と密約を結びます。さらに足利義満に没落された土岐詮直や旧南朝勢力と連絡をとり挙兵を促しました。
そして応永6年(1399)に堺に城を築き蜂起します。しかし幕府の大軍勢を前に大内義弘は討死します。
幕府軍には今川泰範もおり軍功を挙げてます。
駿府遠江2カ国の守護となる今川泰範
応永の乱の活躍により、足利義満から遠江守護職に補任され、1400年(応永7年)駿河遠江両国の守護となります。
元来、遠江は今川了俊の一族(遠江今川氏)が守護職を務めていました。
今川了俊が九州探題を解任の不満から応永の乱で大内義弘と内通した疑いで、今川了俊は遠江の守護を剥奪され、今川泰範に遠江の守護を与えられました。
一時期、斯波氏が遠江の守護となりましたが、1409年(応永16年)まで遠江の守護を補任しています。
今川泰範の家督相続
今川泰範は異説もありますが、1416年(応永25年)76歳で亡くなります。
泰範には範政、泰国、範信の3人の男子がおり、1416年(応永16年)長男の範政が家督を継いでます。
今川泰範没後、すぐに今川範政が守護に任じられており、家督問題はなかったと考えられてます。
今川泰範ゆかりの地
今川泰範の菩提寺は、藤枝市下之郷にある長慶寺です。嘉慶年間(1387~1388年)に今川泰範が開創した臨済宗のお寺です。ここには今川義元の軍師であった太原雪斎のお墓もあります。
この地域は花倉と呼ばれています。のちに今川氏の家督争いで有名な花倉の乱の舞台となった地域です。花倉城は、ここから約1キロほど北側にある山城です。


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